2007年5月号 「和睦」

Family
読者寄稿― 私の喜びも悲しみも知っている仁川から

仁川市  山田貴子

韓国の仁川市に住んでいた主人と生活をし始めたのは99年のことでした。外資系の会社で韓国語に触れる機会は多かったものの、96年に主人と出会い一年以上の文通を通して、韓国人の情の深さ、不器用ながらも純粋な彼の人柄に魅かれ、結婚して仁川市に住む決意をしました。

初めて彼の家を訪問した時、お義母さんが私の手をとって「こんなに、細い手じゃ農業はできなそうだね」と笑って言われたことを懐かしく思い出します。お義母さんには料理から韓国式の洗濯の仕方まで色々と教えていただき、私が失敗しても忍耐強く教えてくださるお義母さんの姿に感動させられました。

2000年1月に長男が誕生し、翌年の9月には長女が誕生し、あっという間に年子の2児の母となった私の生活は子供達の世話に追われてめまぐるしく過ぎていきました。長男が4歳、長女が3歳になって少しずつ言葉も話せるようになり、自己主張もするようになり、子供達の成長が頼もしくも感じました。

そんなある日、私達親子が買い物を済ませて信号を渡りきった時、突然、歩道に乗り上げてきた乗用車に私の体は歩道に飛ばされました。一瞬の出来事に何がどうなったのかわからず、気がついたときには見知らぬ人に抱きかかえられ、背後からは突然の出来事にびっくりして泣き喚く長男の声がしました。そして慌てて長女の姿を探したのですが、乗用車の下に横たわっている長女の姿を見て、血の気が引いていきました。すぐに近くの病院に運ばれ、さらに意識不明のまま大学付属病院に運ばれましたが、結局長女は息を引き取ってしまいました。あまりにも突然の出来事が信じられずに、悪夢なら覚めてほしいと思いましたが、ただ私の前に残されたのは最愛の長女を失ったという現実だけでした。

葬儀の写真には一週間前に私が撮って現像されたばかりの愛らしい娘の姿が掲げられました。「とても可愛いね」と知らない人から声をかけられる娘を見るたびに、照れくさくも嬉しくもあった当たり前のような日々が、失ってみて初めて幸せな日々だったと気づかされました。

私はそのまま様子をみるため大学病院に入院することになりましたが、食欲もなく夜も寝られない日々が続く中、もし娘が私の右側にいなかったならば助かったかもしれない、自分のために娘が犠牲になってしまったという気がしてなりませんでした。そして、何故私が生き残こったのかということばかり考えていましたが、しばらくして突然気づきました。自分がどれほど娘に愛されていたかということを。自分が娘を愛する以上に、私が娘に愛されていたんだということを実感したのです。子供が親だけを頼って必死についていくその姿は本当に尊いのだということを…。あの子はわき目も振らず「お母さ~ん」と呼びながら私の右側に駆けてきたために命を失ってしまったのだけれど、その姿を通して本当に娘の愛を感じたのです。愛だけを残してあの子は逝ってしまったけれど、その愛は永遠に私の心に残っていくのだということを。

療養中、義母に預かってもらっていた長男のことが心配でしたが、電話をかけると、長男が突然こう言いました。「母さん、妹は天国で幸せに暮らしてるよね?」「そうだね、幸せに暮らしてるよ」と私も思わず答えました。そしてその夜、久しぶりに娘の夢を見ました。不思議なことに夢の中で抱き寄せたぬくもりが起きてもまだ残っていたのです。その時、ああ本当に、あの子は生きているんだと実感しました。そして、地上にいる私たち家族をいつも見守っている天使になってくれている気がしたのです。

あれから2年が過ぎ、去年、新しい命が誕生しました。天国にいる長女にとっては妹になる次女は健康にすくすくと育ち、1歳を迎えました。事故を目撃したことで精神的な後遺症が心配された長男も元気にたくましく成長してくれて、今年、韓国の小学校に入学しました。日本だと早生まれで一年生になるので、冬休みには日本の小学校で『体験入学』を体験して日本語や日本の文化や多くのことを吸収してきたようです。


あのころは、何もかも捨てて真剣に日本に帰ろうかとも思いましたが、こうして韓国の家族に支えられながら、これからどんなことがあっても、この韓国のこの仁川で、もっともっと幸せにならなくてはならないと思わされました。天国にいる長女が私達の姿を見ながら、きっと幸せになってくれるはずだから。

 

 

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